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書評的考察「大屋雄裕著『法解釈の言語哲学』勁草書房2006」

橋本努200704(未発表)

 

 

 去る2007年4月6日のLegi研(井上達夫プロジェクト)では、大屋雄裕氏の著書『法解釈の言語哲学』の合評会が行なわれた。この機会に私も本書を精読し、本書から大いに学んだので、以下に思うところを書き記しておきたい。

 おそらく本書は、法哲学と言語哲学をめぐる分野の、時代を代表する一つの古典になるであろう。ヴィトゲンシュタインからクリプキを経て野矢茂樹に至るまでの言語哲学の発展を、一通り批判的かつ体系的に検討した点は高い評価に値する。大屋氏は、批判の論理の組みたて方において周到であり、しかも根源的な思考を強靭に働かせている。法哲学を離れても、本書は面白く読めるだろう。(若い頃にヴィトゲンシュタインの哲学に魅了された人であれば、なおさらであろう。)本書は、ヴィトゲンシュタイン以降の言語哲学がもつ社会理論的インプリケーションを、十分に伝えている。

 

 まず表層的かつ舞台裏的な感想から言えば、本書は、法哲学における井上達夫の業績を乗り越えようとしている点がやはり面白い。もう一つには、本書の副題「クリプキから根元的規約主義へ」にある根元的規約主義の議論が面白い。しかしそらく本書の思想的中核部分は、「権威主義」を「反保守主義」的な仕方で擁護するという、氏の隠れた意図にあるように思われる。この点を説明したい。

 

 大屋氏が先のLegi研で述べていたように、本書には、二つのフェーズ(前半・後半)があって、前半は「規範なるものの正当性を無限定的に懐疑する」という懐疑論の徹底であり、後半は「三人称の地平をめぐる他者の取りこみ」という、法をめぐる実践論の開陳となっている。この二つのフェーズは、ヒュームの懐疑論と比べてみると分かりやすい。

ヒュームは、哲学における徹底した懐疑論を提出した後に、社会を運営するための実践論として、コンヴェンション理論を提示した。ヒュームのこのコンヴェンション理論は、権威の正当性を否定して、日常生活者の実践を肯定するものであった。ところが大屋氏の場合、懐疑論を徹底したのちに、裁判官たちの法実践を肯定し、その実践がもつ「権威」をも肯定する、という筋書きになっている。

 ここで「権威」の肯定は、現代の言語哲学における論理的帰結ではない。むしろ大屋氏の「認識関心」であり、彼の哲学がもつ「思想負荷性」である。

一般に懐疑論というのは、これまで、社会秩序における「安定性」への懐疑であった。そして、人々がもし懐疑論を共有すれば、「社会は不安定化する」とみなされてきた。ところが現代における「無限定的懐疑論」は、これまでの「全面的懐疑論」とは異なって、そもそも社会秩序の不安定性を危惧しない。主張されているのは、社会の安定性を備給している「規範の正当性」が無根拠だということであり、無根拠であってみれば、規範の実効性は、「権力」によって備給されるのみ、ということになる。そして無限定的懐疑論者は、この「権力」の存在を前提に、議論を再出発させる。権力は、実践において、まさに「実力」として存在するのであり、この実力は疑いえないとみなされるわけである。

 

 大屋氏はこうした「無限定的懐疑論」の立場に立って、懐疑論の徹底という「第一フェーズ」から、権力行使の正当化はいかにして可能かという「第二フェーズ」の問題へ移行していく(73-77頁)。しかし問題は、この第一フェーズから第二フェーズへ移行する際の、「問題の立て方」にあるだろう。私には、大屋氏はこのフェーズの「転換点(つなぎ目)」において、二つの含意を与えているようにみえる。

 

大屋氏は、一つには、「自らと異なる意見を持つ他者に対して自分の答の方が正しいと主張することはいかにして可能か」(73頁)という「権力行使の正当化問題」を立てている。しかしもう一つには、ある規則を前提にしても、我々が次にどのように行為するかを決定できないという「導出の不確定性問題」を立てている(76-77頁)。この二つの問題のあいだには、大きな違いがあるのではないか。私には、後者の問題のほうが、すぐれた問いかけであり、前者の問題は、あまり重要だとは思われない。

 前者の問題、すなわち「権力行使の正当化問題」に対して、本書はその解答として、「三人称の地平へ他者を取りこむこと」に最も成功する場合に、その都度の権力行使が正当化される、と主張している。しかしこの解答は、かぎりなく「反保守主義的な権威主義」に至るだろう。というのも、根元的規約主義にしたがって、その都度の物語作用によって最も三人称の地平を獲得することは、プラグマティックには、裁判官の判断を、当面のところ最もドミナントな三人称の地平とみなすことに等しいからである。

 しかし後者の問題、すなわち「導出の不確定性問題」は、これとは別のインプリケーションをもっている。大屋氏がLegi研でみとめていたように、導出の不確定性は、正当化理由の「過剰決定」という場面(井上達夫氏の指摘)を含んでいる。「自らと異なる意見を持つ他者に対して自分の答の方が正しいと主張する」という「権力の正当化実践」は、すでに多くの人々によってなされている。だから、それがいかにして可能かという前者の問題(権力正当化の可能条件)は、重要ではない。重要な問いはむしろ後者であり、すなわち、「権力の正当化論」が複数存在する場合に、「私たちはいかにしてそのなかからすぐれた正当化論(理由)を選ぶことができるのか」である。権力の正当化論は、すでに過剰に存在する。だから私たちは、そのなかから最もすぐれた正当化理由を選ばなければならない。

大屋氏が指摘するように、私たちが普段従っている「規範(法)」は、次にどのような行為を正当化するのかについて、不確定なままにしてしまう。というのも、ある行為を合法とみなすかについて、つねにその都度、複数の正当化論(規準)が生まれてしまうからである。ではそれら複数の正当化論のなかから、私たちは何を選ぶべきであろうか。複数の正当化論が存在する(生成する)なかで、わたくしたちはいかにして、法秩序を安定的に再生産できるだろうか。

これはすでに、権力行使の正当化論ではなく、正当化理由を選択するという理論的な問題に踏み込むものである。そしてその選択は、認識論的には「正義論(規範理論)」によって、また実践論的には「権威による他の選択肢の不可視化作用」によって、それぞれ判断されるであろう。この「選択」の問題は、もはや「権力論」の問題ではなく、「規範理論」の問題であり「権威」の問題であって、プラグマティックな権力正当化論のみでは、うまく判断することができない。私たちは、ある規範(法)の正当化根拠として、一定の正義論(規範理論)を闘わせる必要がある。また実践的には、その正当化を何らかの権威によって備給しなければならない。つまり、問題はすでに、「権力論」の射程を超えているのである。

「規範理論」と「権威」の問題に対して、大屋氏は、認識論的には「三人称の地平」という抽象的な理念をもって答えとし、また実践論的には、「法」という人格の制作・援助・要請をもって答えとしているようにみえる。おそらく大屋氏に残された課題は、また、私たちが現代の言語哲学の到達地点から引き受けるべき理論的作業は、(1)「三人称の地平」はいかにして構成されるべきか、そして(2)「適切な権威とはなにか」、という問いであろう。

三人称は、いつも不偏であるとはかぎらない。現実には、さまざまな三人称が、さまざまな要求を掲げるのみで、「三人称の『地平』」というレトリックは、現実の三人称のどの担い手をも、代弁していないかもしれない。そもそも「三人称」が「地平」をなしているという保証はどこにもない。また、「適切な権威」とは、途上国と先進国とで、異なる基準になるかもしれない。権力を正当化するための議論は、複数の正当化論のなかから一つの正当化論を選択するという、メタレベルの議論とは異なるだろう。しかし、この二つの問題の関係は、国ごとの事情に応じて考えなければならないかもしれない。だから「適切な権威とはなにか」という理論的問題は、難しい。はたして立法過程論は、こうした理論的課題において、重要な貢献をなしうるであろうか。今後も大屋氏と議論をつづけていきたい。